MeguのYouth&Health研究所

わたしの人生

ミレーナ装着2日目

昨日のミレーナ装着で体がびっくりしたのか、疲れて12時間寝ました。

 

起きてからカフェに行くと空間が臭い。

元々、嗅覚過敏で遺伝子的に合わない人の臭いがダメだったりしていて、それが更に過敏になりあの獣の臭いが臭い。加齢臭臭い。長居することが出来ずに帰宅。

 

帰宅後、洗濯したのでコインランドリーに行って中に入ると獣の臭いと加齢臭くっさー!

コインランドリーの中が加齢臭の香りで充満してる。乾燥機から出てる他人の洗濯物の臭いだ。

 

ミレーナで嗅覚過敏に更に発車がかかってしまったのだろうか?

 

とにかくわたしは、アロマなどのナチュラルな香り、ディフューザーなども人工的では無いものじゃないと頭痛や吐き気がするタイプなので

 

とにかく加齢臭と言うか獣の臭い他人の体臭が苦手で生理が楽になってく過程で一時的に臭いに対して過敏になっているだけならいいけど、これが5年続くとなるときついので、経過観察って感じです。

 

ただ、体感はかなり楽な感じがあり、脳がずーっと子宮に振り回されて生きてきたのを感じます。

 

子宮のストレスを脳がリサーチしていた感覚がわかる。だけどミレーナで軽くなっているので脳がストレッサーを探せないというか。

 

人間はホルモンの奴隷だなとつくづく思いました。

 

嗅覚過敏は数日で治ってくれー!加齢臭が鼻につくストレスで、数ヶ月前から、毎日、3Lの鼻うがいもして臭い抜いててもこれじゃーつら〜

 

 

ミレーナ装着してみました。

子宮筋腫子宮内膜症、月経困難症、過多月経の為に、8年もの間、PMDDも酷くて日常生活が送れなくなり、ピルやディナゲストを試しても全身に回る薬の副作用が酷くなり、自分の生理に戻しました。そしたらまたオムツ型ナプキンすら漏れてしまう程の月経の量とそれに伴い激疲れ、倦怠感、気分が下がるなど、抑うつになるので、最後にミレーナを試すことにしました。

 

ミレーナ装着は大学病院の婦人科でしてもらいました。

 

ネットでは気絶級の痛みなどと書いてあったり、装着後の腹痛や腰痛が辛いなど書いてあり様々で不安になりました。

 

診察では、痛みのストレスがかかると、パニック発作が起きること、出産経験がないので子宮口が狭くてミレーナの装着が無理そうな時は無理矢理装着したりしないで欲しいことや、生理中は免疫が落ちやすい体質で感染しやすいので抗生剤を出して欲しいことを話して対応して貰えるようにしました。

 

いよいよ、呼ばれると、手を握ったり足をさすって痛みを軽減させてくれる看護師さんが側についてくれて、大学病院だからか精神的にも安心出来るように声がけもして貰えて痛いながらも頑張れました。

 

装着してくれた先生もとても優しい人でしたが、子宮後屈でミレーナをなかなか装着できなくて、途中で自分は出来ないからと他の先生に変わたりで無理しないでくれて、医者交代になったので5分で終わるところ、30分もかかりました。クリニックと違って大学病院だと医者が沢山居るので出来なければ出来る医者が出てくるのは利点だなと思いました。

 

エコーのチェックも看護師2名医師2名で入念に何回も確認と微調整が入り無事に装着成功に成功。

 

痛みも行く前にボルタレンを飲んで行ったのもあり、気絶級の痛み迄ではありませんでした。

 

装着直後は、腹痛も腰痛も違和感もなく、どちらかといえば、膣に出し入れした器具の痛みが残っている状態です。

 

装着後直ぐに、生理初日の量の出血が即起きています。

 

ミレーナが合えば大量出血で栄養が抜けたりフェリチンの低下から起きる抑うつからも開放されると思うので快適な日常生活が送れるか経過観察したいと思います。

 

勿論、30分も挿入に時間がかかったので疲れました。

 

あと、抗生剤の副作用かミレーナの副作用かわかりませんが吐き気がランダムに起きました。

 

夕方には治りましたが、吐き気や気持ち悪さもストレスになるので内科に行って事情を話し吐き気止めもゲットしました。吐き気はミレーナが安定するまでだろうからと10日分貰ってきたのでそれも一安心です。

 

あとは早く馴染んで生理の辛さから解放してくれるのを願うばかりです。

 

また経過を書きたいと思います。

 

 

 

 

 

私と弟の仲を引き裂いた殺人鬼の祖母

6才の時に弟が生まれた。

 

それまでは一人っ子だったのでとても嬉しくて病院に見に行った時は、ガラス窓の外側から我が弟の姿を探した。

 

見えたのは他の赤ちゃんよりも遥かに可愛い姿の弟だったので、1番可愛いと喜んだ記憶が残っている。

 

何回も、見に行って1.2.3.4.5と数えて弟の姿が見えるとうわー可愛いーとなる気持ちが私にとって癒しだった。

 

そして、、、病院に居た時が嬉しさのピークでのちに弟が一生涯を閉じるまでは弟も私も地獄の日常になるのだった。

 

弟が自宅に帰ると、祖母は念願の男の子が生まれて家の跡取りが出来たことに大喜びだった。だけどこの祖母の喜びと支配は24年後には孫の命を奪うような精神状態にしてゆくのだった。

 

弟が生まれて直ぐに母親は育児放棄だった。

弟は祖母に大半育てられ、そして母親の妹が里帰り出産で実家に来ていてこいつが弟の面倒をみる。

 

この叔母もまた甥の命を奪う感情を作った女だった。

 

この叔母の存在が私と弟の人生を陰から奪い続ける悪心の持ち主で支配者だったのだ。

 

そしてこの叔母も祖母と同様に金と見返りの亡者の殺人鬼である。

 

弟はまず、母親が育児放棄をして祖母に面倒をみさせたので祖母の思うツボだった。

 

長男誕生のお祝いは母親よりも盛大で、子供の日は何処の家よりも大きな鯉のぼりを飾り自慢をする。つまり自分の自慢の為の孫息子となるのだった。

 

まだ生まれたばかりなのに祖母の想像は田畑をさせて自分を手伝わせるんだと意気揚々になっていった。

 

祖母は弟にべったり。だから3才位からわたしと弟が遊んでいたりすると嫉妬して引き離すのだった。それから、遊んでいると嫌味を沢山言ってきたりするので、わたしも段々と弟のことが嫌いになったり、だけど、弟だけは幸せになって欲しい思いもあるので複雑だった。

 

5才くらいになると、祖母は弟への洗脳が始まる。わたしのことを『姉ちゃんは悪い人間だから近寄るな』と言うことを8年もの間ことあるごとに弟に吹き込んで兄弟が仲良く出来ないように引き裂いていくのだった。

 

弟とわたしは、その洗脳が開始してからお互いにボーダーラインが引かれてしまい、この世を去る日まで一緒に暮らしているのに、気まずさからほどんど会話をすることがなかった。

 

会話をしていない間はわたしが虐待されてるところを弟は見ているので、家族に逆らわないように、もの凄い大人しい子供になっていた。

 

弟への虐待も祖母はしていた。弟は愛情不足から指しゃぶりをする子供だった。だけど世間体を気にする祖母は自分が恥をかきたくないからと、指しゃぶりをしている親指にわさびを山盛りつけて、指しゃぶりをやめさせるのだった。

 

辛いわさびをつけられて大粒の涙を流して泣いてる弟を見て可哀想でやめろと祖母の腕を振り払ったこともあるが、噛みついてこようとされたので弟を守ることも出来なかった。

 

のちに、指しゃぶりをすると辛いから指しゃぶりはしなくなっていった。

 

弟はわたしよりも、頭が良かったので祖母の自慢の孫息子だった。学校の成績が良いと近所の人が来た時に、姉ちゃんはバカだけど弟は姉ちゃんより頭がいいんだ。っていつも説明して、兄弟の仲を引き裂いてくるのだった。

 

わたしはいつも弟を勉強で比べられるし姉ちゃんは悪い人間だと言われるので、もっと口をきかなくなっていった。兄弟なのに一人っ子みたいでもの凄い孤独感が募るのだった。

 

仲良くしたいけど、心にロックがかかって話しかけられない苦しさ。これは弟も同じだったと思う。

 

一緒に暮らしているのにお互いが近寄りがたい存在になっていくのだった。

 

弟はおでこの上に渦巻きがある状態で生まれて、祖母はそれを近所に言いふらして容姿いじりも酷かった。弟もわたしと同じように祖母の好きな刈り上げにされて尚且つわざとコンプレックスになる渦巻きが見えるようにカットさせて近所の人が来た時にそれを話題にする最低な人間だった。

 

たまにわたしと弟は同じような野球選手のような髪型になったりすることもあった。

 

母親はそんな私たちのことを守ることもないうえに弟の面倒を見ている記憶がわたしの中にも何一つなかった。

 

両親は、また罪を犯していたのだ。弟もわたしと同様で好きでもない人の子供を2人で作りまた産んだのだ。

 

弟も小学生に入った頃から段々と姿が落胆している姿へと変貌していくのだった。頭が良かったから勉強が唯一の支えだったのだ。その支えも姉を馬鹿にする道具、祖母の自慢の為に奪われるのできっと辛かったと思う。兄弟格差を家族がつけてくるのだからたまったもんじゃない。

 

そして弟が成長していく度に祖母は弟のことを自分の父親のようにしていくのだった。

 

なので、私が弟に近寄ると父親を取られるかのように嫉妬が激しくなるので益々、裏側で兄弟を引き裂く虐待が耐えなかっのだ。

 

それから、弟は5年生の時に海外のホームステイに行きたいと行って、頭のいい子は行ける支援があり、祖母はそれに行かせたのだ。

勿論、海外に行かせると近所の人が来た時の自慢の種になるわけで、案の定、オレが孫を行かせてやったんだと言いまくりだった。

 

だけど、弟はこのホームステイで天国と地獄を味わうことになる。現実の世界では愛情がゼロな世界に対して、海外のホームステイ先はあたたかい愛情たっぷりなところ。自宅に帰ってきて大きく傷つくことになるのだった。

 

ホームステイが終わってからも、そこでママとなった人から温かい手紙やプレゼントが自宅に届くのだった。

 

それを見た祖母がまた嫉妬して、手紙とかも馬鹿にして弟に話して聞かせたりするのだった。

 

遠いとこから手紙なんよこしやがって、いつまでも気に止めてしつこいとか、返事なんか書くなと言って、弟は海外のママとの交流も祖母に引き裂かれてしまうのだった。

 

弟はそれからも勉強に励むようになって、高校も頭がいい人が行くところに入学したのだ。

 

それもまた、祖母の自慢の餌食になってしまうのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ペットを子供に殺させる祖母

とにかく祖父母は、生き物に対して命の重さなど何も考えずに殺す人間なのだ。

 

小学生の頃、家で猫を飼っていて私にとっては唯一の癒しの存在だった。

 

だけど、猫が妊娠して子猫を産むと、可愛い子猫を川に捨てて来い。と言って、殺しの命令をしてくる最低最悪な祖母だった。

 

大好きな猫を殺すなんて出来ない。嫌で嫌で仕方なかったが、川に捨てに行かないと祖母から怒鳴られて虐待されるので、川に捨てに1人で向かうのだった。

 

手の中でミャーミャーと可愛いくなく子猫達。今から川に捨てられて死んでしまうとも知らずに、私はやりたくもないことを祖母にさせられて、猫の命を自らの手で消してしまうことへの罪悪感の苦しみと祖母から受ける虐待の苦しみに挟まれてボロボロと泣きならが川に向かった。

 

川について子猫を川の水につけるなんて強い悲しみと寂しさで出来ない。猫だって大事な命。しかもこんなにも可愛い姿なのに。でも捨てないと祖母に怒鳴られるし草むらに離して見つかれば虐待されるからとても苦しかった。

 

尋常じゃないくらい心の傷みと苦しさが何回も襲ってくる。

 

こんなにもわたしに対して傷みと苦しみを与えてくる祖母のことが本当に怖くて同時に憎くてたまらなかった。

 

わたしは、猫を川に流さないと祖母に怒鳴りつけられるので水に猫をつけて手を離したら泳ぐ事が出来ないからミャーミャー大きな声になって、流れてく姿を悲しすぎて見ていられなくなって泣きながら川に飛び込んで助けてしまったのだ。

 

ごめんね。ごめんね。本当はこんなことしたくないのに、ばあちゃんに怒鳴りつけられるんだ。と言いながら、ボロボロと涙を流して何回も誤った。ずぶ濡れになったまま子猫を抱いて土手にずっと座り込んでいた。段々と夕方になってきて祖母にいつまでも何やってんだクソガキと探しにくる様子が頭に過ぎる。祖母が畑に居る間に帰らないと見に来て怒鳴られる。それを想像すると怖くて仕方なかった。

 

わたしは、胸が引きちぎられるくらい傷みの中で子猫を川に流して、鳴き声が聞こえても今度は一回も後ろを振り向かずに下を向いてボロボロ泣きながら歩いて家に帰った。

 

耳に残ったミャーミャーと泣く声が取れなくて、胸が苦しい。半分、ノイローゼになっていた。

 

濡れた洋服は水遊びしたことにして、泣いた顔を見せるとまた祖母に怒鳴られるので顔を下に向けたままにした。

 

祖母は、捨ててきたのか!と聞いてきてうん。と言うと嬉しそうにしていた。

 

わたしのことを最大限に傷つけれたことにさぞかしご満悦だった。

 

わたしは、家の中に入ってから頭から鳴き声が止まず子猫がどうなってしまったのか心配で心配でたまらなかった。溺れて死んでないか、もしかしたら土手に引っかかって生きてるかもしれない。なんで大好きな猫を自分が殺さなくちゃいけないんだ。罪悪感の意識に囚われて心が締め付けられた。

 

その苦しさから次の日もその次の日も子猫を探しに川に見に行った。下流を下がりかなり歩いて探した。でも何一つ姿がなくてきっと流されてしまったんだと思い諦めた。

 

母親に祖母から猫を殺させられて嫌だったんだと話しをしても、お母さんだって捨てさせられてきたんだから知らねえ。と言われたのだった。

 

私の心の傷みをわかってくれる家族はこの血族には1人も居なかった。家族の感情が怖い。人間の感情が怖い。

 

わたしは、幼少期から祖父母達が気にくわないと動物の命を平気で殺す場面や乱暴な扱いをす場面を見てきていて、祖父に関しても野良猫が納屋で死んでいると私を呼びつけて見てみろと言い、死んだ猫を蹴飛ばして私に渡してきて片付けろと言ってきたり、父親も庭で猫を車で引いて私に見て来いと言いつけてきて自分でみようとするなどしない。

 

大好きな猫に対する悲しみを沢山与えてくる大人達。

 

猫に限らず飛んでる鳥を捕まえて首をへし折り紐で吊るしていたりする。

 

子供に苛立つと木に縄で括られたり、真っ暗な納屋に監禁される。納屋の中には蜘蛛や虫やネズミが居て真っ暗で見えないから顔や頭になんかひっついたりして臭い。地獄だった。納屋に監禁される時は、出してー出してーここから出してーと声が枯れるまで叫ぶ、ぐったりするまで叫び続けてから納屋から出されるのだが、ざまーと言われるのだった。

時には家屋の鍵を全部かけられて家の外に出されて、玄関をグーで殴りながら入れてよ中に入れてよーと叫ぶ。必ず悪いことをするとまたやるからなと言われるのだった。

 

悪いことと行っても5時のサイレンより少し遅く帰ってきたとか、ほんの些細なこと。それで虐待されるのだった。

 

大人に逆らうとこうゆう怖い目に遭わせるから逆らうなというメッセージを突きつけられる日常だった。

 

そんな人間と一つ屋根の下で暮らすことやずっと身内として一生涯繋がっていることが途方もない苦しみと恐怖だった。

 

わたしの親族及び家族は現代で言うマキャベリストナルシシズムの虐待者である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

家族に誕生日を祝って貰うことがなかった

精神虐待家庭育ちの半生

 

幼稚園に行くようになると

 

お誕生日会なるものが幼稚園で出てきた。わたしはそうゆうことは家族にしてもらったことがなかったので、初めて触れる感覚だった。

 

だけど、人を祝ってあげることも自分が祝われることもよくわからなかった。

 

幼稚園では、親への通達書面でおやつの準備をするように連絡が行っているので、あげるお菓子の準備をしたのだけれど、プレゼントを渡す時に他の子は中身が見えない袋だったり箱などにプレゼントが入っているのに対して、私が親に持たされたのは、スーパーで売っている駄菓子を包装しないそのままだった。

 

誕生日の子が中身が見えないプレゼントを開けて喜んだり皆んなに見せたりしてるのに、私があげたものは丸見えだから普通にただお菓子を渡しただけ。みたいな感じで喜ぶとか何もなくて心だけなんだか苦しかった。

 

自分の誕生日月にも今度は貰える立場になり嬉しかった。でもどう喜んだらわからなかったので隠してしまったのだ。

そして、家に帰って、祖母に見せると、、、何貰ったんだ、ばーちゃんに全部よこせ。こんなもの貰いやがって、貰ったものは全部持ってきてばーちゃんによこすの、わかったか。と怒鳴りつけられ取り上げられるのだった。とてもショックだった。

 

学校に入ってもお誕生日会があるのと、段々と皆んな家族からこんなの貰ったと見せてきたり言ってきたりするので、

 

わたしも親から誕生日にプレゼントが欲しい。お祝いして欲しい。その気持ちが湧くようになった。

 

そして、自分の誕生日が来た時に、親に誕生日プレゼント欲しいと言ったら、親の返事にガッカリするのだった。

 

はぁ?誕生日あんたのお祝いをなんでお母さんがしなくちゃいけないんだ。やらない。自分で勝手にしてろ。しらねー。あっち行け、うるせー、と言われる。

 

すると、祖母もそこに口出ししてきて同じことを言うのだった。

 

お前が、学校で誕生日会してるんだから、お前がばあちゃんやお母さんを祝え。と言うのだった。

 

そして、学校での誕生日会をきっかけに、祖母は自分の誕生日になると私に誕生日を祝え何か持ってこいと強要してくるようになったのだ。

 

何もやらないと、こっちは面倒を見てやってるのにこのクソガキはなにもオレにしねーで、飯食いやがってと言う。

 

そして、近所の人が来た時に、あんたの家の孫ちゃんは、いいなー誕生日のお祝いする孫で、うちの孫なんてなーんにもしねーんだ。可愛くねー孫なの。あんたの家の孫はめんこいな。と言うのだった。

 

小、中、高、成人、ずーっと言われ続けた。

 

働くようになると、こうしてやったああしてやったと言い、見返りの要求はもっと激しくなった。

 

幼少期からずっとうちの孫は何もしてくれないと言われ続けてきたので、苦しくなって洋服を誕生日に買ってあげたのだ。

 

あげたらあげたで、こんな色は似合わない、小せー、若いだ、派手だ、生地が薄いだのと全てにおいて文句を言って一度も着ないのだ。

 

 

そしてまた、近所の人が来るとうちの孫は未だに誕生日も敬老の日も、クリスマスも何もしてくれないと、私が居る前で言うのだった。

 

こうゆうことは、誕生日、敬老の日、クリスマスに、毎年毎年、繰り返すのだった。

 

そんな精神的苦痛を何十年も繰り返していくうちに自分の誕生日があることが辛くなるようになっていった。

 

自分の誕生日を無視され歓迎されないことから、

 

自分の誕生日が、この家族の元に生まれた苦しみの始まりの日というイメージになってトラウマになってしまったのだ。

 

 

私の時代は、面倒をみてくれた親に感謝するのが当たり前という概念だったので、酷い目に合ったことを誰かに言っても、育てて貰ってご飯も食べさせてくれたんだからそれは愛があるからだと言われる、だから感謝しなさい。という言葉が返ってきて、あんたの考えが悪いと言われる為に逃げ場も居場所もなかった。

 

愛なのに苦しい。愛なのに死にたくなる。

 

今ならこんな感情はおかしいと思えるが、当時のわたしはバグっていて訳がわからなくなっていた。

 

令和になってからは、子供を大事にしない親を大事にする必要はないとはっきりしているので、本当にそのとうりである。

 

子供の感情に喜びを与えず深い傷を負わせトラウマを作り続ける家族や親は頭がおかしいと言える。

 

私は家族や両親に誕生日を祝って貰うということを経験することなく大人になった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

中学時代の虐め

家庭環境が悪かったのもあり、小学生の頃から友達が出来なかった。

 

と言うよりも、祖母に仲良くする人が出来ると縁を切られていたので、どれが友達なのかが分からなくなって一緒に居る人がコロコロと変わり友達がどれなのかもわからならくなった。

 

いつも独りぼっちそんな感覚が胸を占めていた。

 

そうゆう状態のまま中学に入り部活に入ってからは部活仲間と通学して一緒に居るようになった。1年2年とそんな感じだった。

 

ただ、先輩達がヤンキーだったので部活での後輩虐めも酷かった。目につくと罰を与える為に呼び出しをくらい罵倒される。

毎日、廊下に先輩が居たら直角に腰を曲げて頭を下げる。頭を下げないと呼び出しをくらう。そんな日常だった。

 

1年の時、部活はテニス部に入った。そしたらなんとヤンキーの先輩揃いで入部して顔を見た時に怖くて落胆したのを覚えている。それから先輩が居る部活に行くのは苦痛と我慢と恐怖の日々になっていった。

 

テニス自体は楽しかったけれど先輩からの命令は絶対で、兎跳びやランニングで大きな校庭を長時間走らされて、余りの辛さに体育館の裏に隠れて休んだ。そしたらそれがバレで案の定呼び出しされた後には、ボレーの練習をするといい休んだ罰として直近でボールを打ってくる。それが顔面に当たり尋常じゃ無い痛さを伴う。勿論、顔面に当たれば、ちゃんと取れよ。バカかか、下手くそ、と言われ皆んなの前で笑いものにされることを繰り返すのだった。

 

炎天下の下で何時間もボール拾いをさせられて校庭を見ると蜃気楼が見えるくらいふらふらになって、ストレスで日光病になった。太陽に当たると水ぶくれが皮膚に出来る病気になったのだ。病気で自分を守らないといけないくらい苦痛を味わっていたのだった。

 

先輩達は髪の毛を結ぶゴムの色や靴下の長さ、スカートの長さなどあらゆるチェックを毎日していて、目をつけられると部室に呼び出され罵倒する。生意気なんだよブス。何さまのつもりだ、くそ1年、などと言われて笑われる。

 

呼び出し場所は、他にも非常階段やトイレに呼ばれて先輩達に囲まれてメンチを切られるのだった。勿論、蹴りや頭を押してきたり酷い時はトイレに入れられ頭の上からホースで水をかけられる。本で殴られる、そうとうな虐めや虐待だった。

 

家でも虐待、先生からは暴力、先輩からも虐待。もう辛かった。

 

2年間そんな感じでやっと3年になりヤンキー先輩達が居なくなったと思っていたのに、3年の夏休み明けから、今度は同級生から私への虐めが始まったのである。

 

学校に行くと上履きが無いのだ、探すと1年生の所に放り投げられている。最初はそれが虐めだとは気づかなかったが、次の日もその次の日も続き私が虐めのターゲットにされていることに気づいた。

そしてまた上履きが無い日があり廊下を見たら様子を見に来てる同級生が居たのだ。クスクスと笑って姿を消した。上履きを履いて教室に向かうと私の机が廊下に出されていたのだ。あの笑いはそうゆうことだったのかと思った。

 

その日から虐めはエスカレートしていくのだった。

 

お昼の時間にトイレに行って戻ってくると給食を食べるグループから私の机を引き離されて壁に寄せられている。ある時はまた廊下に机を出されている。

またある日の朝、教室に入ると針を上にした画鋲が椅子一面に置いてあったり、またある時は机と椅子が泡が立っているツバだらけにされていたりした。雑巾で拭くのも気持ち悪さと悲しみでいっぱいだった。誰も助けてくれない。我慢の日々だった。

 

秋に芋煮会というものがあって、その芋煮会の日には、芋煮会用に持っていく米が私のロッカーにぶちまけられていた。1人でそれを片付けているとやった本人が見に来てクスクスと笑って消える。その後に自転車で皆んなと芋煮会場に行く山に向かうのがとても怖かった。秋になっても虐めは終わらない。

 

部活で一緒だった子が私と居るとその虐めをしてくる女に私から引き離しおんぶしてダッシュをさせられたりしていく、その子もわたしと関わってたら虐められると思い、一緒に居ないようにと伝えたこともあった。それから視聴覚室や体育館への移動は全て1人だったので孤独だった。

 

保健体育の授業の時にロッカーに教科書を取りに行くとこんどは教科書のページが全部三角折りになっていた。

 

自分がなんでこんなことをされるのか全く理由がわからない。

 

虐めはもっとエスカレートしていく、体育が終わって着替えて4時間目の授業が終わってからロッカーに行くと着替えた体育着が無いのだ。一体何処にいったのか探しても見つからずに、トイレに見に行ってみたら便器の中にわたしの体育着が入れられていたのだ。皆んなが排泄している水の中に浸かった体育着を素手で拾い洗面台で流す。惨めだった。

 

わたしはもう自分がこんなことをされて笑われて生きていることへの恥の気持ちが湧くと同時に女という生き物に対する恐怖心から人間不信になっていった。

 

精神的苦痛を与えてくる殆どが女性だった為に私は女性恐怖症になっていった。女性が居ると汗が出てきて動悸がして震えてくる。吐き気がする。笑ってる笑顔が怖い。年上と同世代や中年の女達が怖い。女が持つ悪意に満ちたダークな感情が怖い。

 

そして人間不信になり人にビクビクし媚びへつらうようになっていった。

 

そんな自分がとても惨めだった。

 

家に居る家族にビクビクして外の世界の人間にもビクビクする。言う事を聞かないと皆んなから虐待される。そうゆう思考になっていた。

 

私の居場所は世界中何処にもなくていつも孤独で苦しかった。

 

早く死にたくて、満月になると月を見て早く迎えに来て欲しいと一生懸命願った。生きてたくない、地球が怖い、人間が怖い。女が怖い。

 

卒業式まで虐めは終わらずに続いたのだった。外の世界も内の世界も怖くてたまらなかった。

 

このようは経験をして、自分がされて嫌なことは人にわたしはしない、こうゆうような同じ人間にはならない、その思いだけは強かった。

 

 

 

 

 

 

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子供は家族の奴隷

家系的に子供は5才から労働をするという図式の血族だった。

 

2世代上は親は働かないけれど子供が稼いで親にお金を渡せ。という家族。最低な人間だ。

それが祖父の両親。その為にわたしも幼稚園から労働者として扱われ続けた。

 

実家は兼業農家で暮らしを賄う半自給自足生活だったので5才頃から、田畑の仕事を子供にさせるのだった。

 

特に米作りの時期、3月4月、10月11月は地獄だった。

 

3月から米の種植えが始まるのでそこに子供を一輪車を使わせ何十キロもある土を往復で運ばせる。

スコップで土と肥料を混ぜ合わせる。トレーに土を蒔き種を蒔き水を撒く。その後にそのトレーをハウスに何十往復して運ぶのだった。

子供の体で一輪車にトレーを載せて運ぶのはふらつき倒してしまう。その都度、何やってんだちゃんとやれバカやろーと祖母に怒鳴りつけられて頭を叩かれる。それが毎年やってくるから嫌で嫌でしかたなかった。

 

稲が育つと次は田植えだった。自分の体の何倍もある木製の重い線引き機で田んぼに線を引く。力がないので転ぶとまた怒鳴られるのだった。それが終わると裸足で田んぼに入り、手植えで稲を植える作業。小さい体に籠をつけられて、稲を放り投げられ取れなければ泥水が顔面にかかる。ちゃんと植えれなれなければまた祖母に罵倒される。次は使い終わったトレーを洗う作業、トラクターを洗う作業、これを5才の頃からさせられていていつもくたくたになりぐったりだった。

私の体は子供のうちから疲弊と疲労がつきまとうようになった。

 

10月になると、稲刈りの時期がくる為に今度は天日干し用の杭を何百本と運びそれを土に深く打っていく。子供の体で2メートルもある杭を運び土に打つのは過酷だった。力がないのでうまく出来ないとまた怒鳴られる。

そして稲刈りが始まり30キロの袋に稲がどんどん詰められる。それを軽トラックに100袋近く積んで、乾燥機に運んで一袋ずつ流していく。

これを1人でさせられるのだった。次から次と運ばれてくる米。キリがない乾燥機に流す時間。それをしているうちに子供ながら腰を痛めてしまい20代でヘルニアになってしまったのだ。この労働が苦痛すぎて体は消耗するばかり。

 

もう嫌だ。心の声が全身を駆け巡る。

 

畑もしていたので、稲作が無い時は芋掘りや、草取り、もう限界だった。だけど、やらないと怒鳴られて役立たずと言われる。働かざる者は食うな。と散々言われる。自分よりも大きな大人に言われる怖さから頑張って働いた。

 

そのうち、わたしは、農業というものに恐怖を感じるようになっていった。畑や田んぼや山を見ると胸が締め付けられて発作が起きる。

 

そのような、稲作労働の苦しみから白米を食べると激しい発作が起きるようになった。

 

白米を見ると動悸がする。子供にとっては過酷な労働だったので米がトラウマになってしまっていた。

 

大人になった今も、白米を食べるとたまに気持ち悪くなるので、雑穀米やもち麦を入れて白米じゃないよ。大丈夫だよーと、子供の頃の辛かった記憶とリンクしないようにしている。

 

子供の頃、誰にも助けて貰えず辛かった現実をわかって貰えなかったことは今の自分が充分理解している。

 

こんな過酷な労働したくなかったよねって。