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わたしの人生

お母さんのお腹に居たのはあんたの方だろ

家庭内の精神的虐待が絶えない家だった。

 

物心ついたころから既に生まれたことへの後悔から子供が欲しくないのにわたしのことを産んで虐待してくる家族が憎くて仕方なかった。

 

ある日、私が父親にそっくりで好かねーと祖母が言ってきたことから母親とも口論になり、

 

そんなに私の事が嫌ならなんで産んだんだ産まなきゃよかったでしょと問い詰めた。

 

すると母親の口から出てきた言葉に唖然としたのだった。

 

『はぁ?あんたが私のお腹に勝手にいたんでしょ、お母さんはあの時具合が悪くて内科に風邪を引いたと思って行ったのに、医者からこれは風邪じゃなくて、産婦人科ですよと言われて婦人科に行ったらあんたが居たんじゃないの。お母さんのお腹に勝手に居たのはあんただろ、お母さんは具合悪かったんだ』と言われ、

 

母親は、勝手にお腹に居たのはお前だからお前が悪いということを言ってきたのだ。

 

私の意思で母親のお腹に居たんだとということを小学生の時に言われ大ショックだった。

 

この話しは一回だけじゃなく大人になってからも言われ続けたのだ。

 

そしてこんな母親のお腹に居た自分が悪いんだと自分の事が嫌いになり自分の事を責めるようになっていった。

 

母親は、わたしに対してお前が腹に居たのが悪いんだから『嫌なら死ね』『死んだらいいっちゃ』『早く死ね』と言う。

 

この『早く死ね』と言う言葉は普段から事あるごとに浴びせてくる。

 

子供の頃から既に虚弱だった私は体調を崩しやすかった。具合が悪いと言うと『だったら死ね』『早く死ね』『死ねばいいっちゃ』と言う。

 

とにかく何十年間も『死ね』と祖母と母親に交互に言われ続けた。

 

でも、私が浴びせられる『死ね』の言葉は徐々に自殺願望へと変わっていくのだった。

 

死ねば楽になれる死ねば全て終わる死ねばこの家族と身体から人間世界から解放される。死にたい。早く死にたい。

 

こんな気持ちになっていくのだった。

 

わたしに対して行い続けた精神的虐待がのちに弟の精神に影響を与える残虐な行為であることも知らずにこの祖母と母親は精神的虐待をやり続けたのだった。

 

 

 

 

 

 

※これはアダルトチルドレンを生きてきた実話の人生物語なので、今は死の感情はカウンセリング治療によって寛解していると付け加えておきます。

 

 

 

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父親は浮気男で祖父は痴漢男

父親の女好きと浮気常習犯であるのに対して、なんと一緒に暮らして居る祖父もまた女好きだった。

 

祖父の場合は警察沙汰になるという始末だ。

 

祖父は自分の従兄弟である祖母と結婚した男である。

 

つまり祖父の母親と祖母の父親は兄弟。

祖母は戦前でありながらも誰にも貰って貰えず実家で余っているところに離婚した従兄弟の祖父と結婚した女だ。

 

祖父は違う女性と結婚していたらしいが病気で倒れてばかりで使えない女だった為に離婚し祖母と結婚したという話しをよく親族が話していた。使えないから離婚するという考え方が既に人間として終わっている。

 

全てがエゴで出来ている歪んだ愛。考えられない実態だった。

 

祖父母2人も好き同士ではない。そして近親相姦で私の母親が生まれ案の定、血液の指定難病者となったのである。

 

母親が父親と結婚しても祖父母の近親相姦の血が薄まらずに私にまで遺伝して、女性の肉体に対してヘモグロビンは男性の値になっており虚弱体質になってしまったのだ。

 

祖父母達は、近親相姦で子供を産んだら我が子が病気になるかもしれないとは考えられない同士の人間だった。恐ろし過ぎる人間性である。

 

 

そして、祖父は祖母のことが好きではないので浮気はしないけど他の女を好きになるのだった。

 

好きな人は隣の家の女。先ずはこの人が1番好きな女。何が好きって、ヒステリックな祖母とは違って甘ったるい声で祖父に話しかける為に祖父はいつも鼻の下を伸ばしていて孫が居る前でもその人が来るとセクハラ行為をするのだった。

 

祖父の好きな隣りの家の女が来ると、背後から抜き足差し足忍足になりながら両手を前に突き出し手をソフトボールを掴んでいるような形にしてお尻を触るということをするのだった。そうすると、隣りの家の人は『あらやーだおじいちゃんったら〜ん』と甘だるい声で言う。

祖父はそれに頬を赤くしてデレつき萌え萌えになるのだった。

 

子供の孫が見ていようがお構い無し。わたしは父親の浮気だけでも滅入っているのに祖父まで変態男で心は益々、複雑な嫌悪感を抱く感情になっていくのだった。

 

それから、祖父は若い看護師さんが大好きでしょっちゅう怪我や病気をして病院に行く。すると若い看護師さんの甘だるい声で『おじいちゃんきょうはどうしましたか?』って聞かれるのが大好きで家では見た事がないカッコつけに豹変するのだった。入院となればベッドに寝そべり看護師がきたらすかさず両手を後頭部に組んで足を組む。そして話す。それがまた家では隠してる男の部分をあからさまに出すもんだから気持ち悪くてたまらない。

 

その姿を何十年も見せられてく時間の中でこの祖父の血肉も自分に流れているのかと思うと両親に加えて毎回、落胆するのだった。

 

そしてその女好きは事件に変わる。

 

旅行先でのこと、九州の温泉旅館に泊まりに行った祖父が食事の大広間で回ってきた中居さんに対して、隣りの家の女の人にいつもしているように忍足で近づいていきお尻を触りに行ってセクハラ行為で警察沙汰になった連絡があったのだ。

厳重注意で終わったから良かったものの、

家では当たり前に家族が大激怒。旅行先に行ってまで女の尻を触りたがるなんてと暫く家の中は荒れたのだった。

ただ世間の目を気にする人間の集まりなのでこの事は秘密となった。

 

 

若い娘や女のお尻を追っかける痴漢の祖父と同じ屋根の下で暮らすことへの嫌悪感と苦痛を味わい続けた。

 

私が成人してからもこの行為は続いたのだ。

 

子供ながらも両親と祖父母達を見て好きではない人同士が妥協結婚をするとこんな風に孫や子供の感情が不幸になってしまうんだと思ったのである。

 

本当に好きではない人同士だからお互いがお互いの事を大事にしない存在。エゴで結ばれた人間達の家系に生まれた苦しさと辛さは計り知れなかった。

 

 

 

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父親の浮気と心の傷

うちの父親は典型的な浮気男しかも隠すことなく大っぴらにするタイプの男だった。

 

聞いた話しによれば結婚した3日目から既に帰宅せずに女の家に行っていたらしい。

 

女が居たのに何故に母親と結婚したのか本当に意味不明であり、わたしからしたら妥協婚をし身勝手に産み落とされて大迷惑である。

 

 

そんな父親の血肉がわたしの中に流れていると思うと胸が痛くなるばかりだった。

 

それに対して母親の方は、浮気されてても何にも思わない女。母親は指定難病の病気を患っていて父親の浮気はどうでもよくて、自分の病気を心配しない部分に対してのみキレてる女だった。

 

指定難病を抱えていながら結婚をして子供を産んだら我が子にその難病が遺伝したらいけないと考えられないような女。それがわたしの母親だ。

 

そんな母親の血肉もわたしの中に流れていると思うとまたいたたまれない胸の痛みに襲われるのだった。

 

今も親族両親含めた細胞で出来ている体を脱ぐことが出来ない苦しみがまだ残っている。

 

 

ある日、父親が懐石料理に行くと言って私と母親を連れ出したのである。懐石料理だからなのか行く迄の間は両親の喧嘩はなかったので、私は蟹を食べる気満々になっていた。

すると寄るところがあると父親が言い出した。車は居酒屋が沢山並んでいる路地に入っていく。何処に行くのだろうと思ってたら一軒のスナックの店の前で車を止めたのだ。

降りて中に入れと言われ4人テーブルに案内されて父親が居なくなった。少ししたらその店の奥から女と父親と1匹の犬を連れて現れて、席の前まできて浮気女を私と母親に紹介してきたのだ。こちらが妻と娘で、俺といるこの人はいつも遊んでいる女性だと紹介してきた。そしてその浮気女も一緒に懐石料理に行くからと言って一緒に懐石料理屋に向かったのだ。

 

わたしは、家族で蟹を食べれると思っていたのに父親の女が入ったせいで、浮気女が食べたいものが優先されて、私と母親は2人が手をつけない部分を食べる。

浮気女は鯛のお刺身や鮑と高級なものを頼む。父親はいくらでも好きなものを食べろと大盤振る舞い。喜ぶ浮気女と奢ってやっていることに酔う父親。

 

わたしと母親は2人のイチャラブの世界を映画でもみているかのように食べながら眺める。

 

普通の母親なら、お父さん何をかんがえてるんだとキレて子供を守るはずなのにそんなこともしない母親。

 

私はまたこの時もこんな両親でなければと一緒に居ながら心は悲しみと寂しさに襲われるのだった。

 

そしてまた、ある時、父親は浮気女と遊んでいつもより早く帰ってきた日があった。珍しいこともあるもんだと思っていたら、大きな紙袋を手にお土産持ってきたぞーと得意気になって家の中に入ってきた。私は、普段から何も買って貰えてなかったので何何と近寄っていった。するとカラフルな女の服が出てくる。わたしは洋服を買って貰ったことがなかったのでそれを手にして体に当てちょっと喜んだ。そしたら俺の女の服を貰ってきたから着ろと私と母親に彼女の服を渡してきたのだ。その洋服はボディコンと言われるミニスカ露出のセクシーワンピースだったのだ。

 

そしてその洋服を出している時に祖母が居間に入ってきて、、、案の定、とんでもない罵倒と大喧嘩になったのだ。服を持っていた私にも祖母は罵倒してきて頭を叩かれて最悪だった。

 

父親VS祖母と母親、言い合いが続き物が空中を舞うやら、父親は祖母に噛まれそうになり自室に引っ込んでなんとか静かになった。彼女の服は居間にほっらたらかし。

 

1コだけ可愛い服があったので母親と祖母が居ない隙に取って隠した。父親の浮気女の服でさえも欲しくて隠したわたしはそれだけ両親からの愛の無さに飢えていたのだった。

 

父親はある日曜日に珍しく家に居た日があった。その日にわたしは学校のリュックを近所の人からお下がりで貰ったので父親に見て貰おうと部屋に行ってドアを開けたらなんとAVを見ていたのだ。

わたしは、おとうさ、、まで言って持っていたリュックを床に落とした。そして父親がその音で振り返り目と目が合った。

 

その瞬間、全てがスローモーションになり体が硬直したのだ。頭の中は大パニックになりリュックを引きずりドアを閉めてロボット歩きで居間に戻った。

 

誰にも言えない。言ったら争いが起きるので自分の心の中に閉じ込めた。

 

案の定、父親はバカ過ぎる男なのでAVも本棚に普通にずらっと並べて出している。仕事に行ってる時にあの日に見たものは一体何だと思いそのビデオが何本あるのか定期的に部屋に入って数えるようになるのだった。増えたり減ったりしている。熟女者が多い。これは浮気女との営みの想像を膨らます為の大人の道具だと小学生なのにも関わらず気づいたのである。

 

父親が益々気色悪い。それからわたしは父親を遠ざけるようになっていった。

 

そのAV事件があった後に今度は父親が風俗に通うのだった。そして事件が起きた。風俗で女から性病を移されて帰ってきたのだ。

その日の朝に起きてきた父親はパンツが血だらけになっていて、飛んで部屋から走ってきて母親と私のところに駆け寄り血だらけになったと又を見せてくるのだった。風俗に行って病気を貰ったと堂々と言って。母親はそれを見てザマみろと言ってとても嬉しそうだった。

わたしはその光景をただ突っ立って見ているのだった。

 

そんな両親を見ながらわたしはこう考えるようになった。これは夢だ。本当のお父さんとお母さんはきっと他にいて大人になったら迎えにきてくれるんだ。そう強く思い込んだ。この思い込みが大人になっても深層に練り込み取れなくなることも知らずに、子供時代を生きる為に心を守る防衛だったのだ。

 

本当の親が他に居ると思わなければ生きていけないくらい苦しい現実を生きていたのだった。

 

 

 

 

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感情迷子の子供時代

私の両親は好き同士で結婚した男女ではなかったので子供が生まれても、好きな人の子ではないから一緒に遊んだり何処かに連れて行ってくれたりしなかった。

 

この両親から貰えなかった愛情の数々の出来事がのちにとんでもない苦しみの人生に繋がってしまうともわからずに、、、生きてきた

 

父親はとにかくパチンコと女が好きで、毎週末になるとパチンコ屋や浮気女の家に入り浸るような男だった。

 

家にいると祖母から文句をつかれるので窮屈な為にわたしを遊びに連れて行くとダシにしてパチンコ屋や実家や浮気女の家に遊びに行くのだった。

 

パチンコ屋につくとわたしに先ずは代打ちをさせ、そして店員から注意されるので1000円を渡され外で8時間もの間1人で待たされることが多かった。父親はパチンコに夢中で外で1人で居るわたしのことなど全く心配などしない。そうゆう人間だった。

 

8時間も待つというのは子供の私には苦痛と辛さが体を締め付ける長い長い時間だった。まだ終わらないのかまだかとパチンコ屋に入っては父親を探し、さっきいた場所に居ないとウロウロして姿を探し見つけたら、車に戻ってひたすらずーっと座って待っている。それが苦痛になってくると、今度は歩いてスーパーやコンビニを周り時間を潰す地獄のような時間を過ごすのだった。

 

時には、パチンコ屋には行かずに浮気女の家に向かう。その時は河原で私のことを車から降ろして、ここで待っていろと言われて、浮気女と父親は2人の時間を楽しんだ後に私を拾いにくる。その間のも何時間後に父親が来るのかもわからないから苦痛の待つ時間。子供だったけど川に入って死のうかなと、待っている間はいつもそんな事を思っていた。死ねば楽になれる。もう小学生の頃から死にたい気持ちが芽生えていた。

 

そして父親に6年間そうやって連れ回された。

 

それでも父親について回っていたのは、父親の実家に行くこともあったからだ。父親の母親、私から見たらおばあちゃんは、一緒に暮らす祖母とはまるで真逆で、落ち着いていて品がよく声も優しい人だった。子供と競争したり嫉妬して争ったり怒鳴ったりしない。その雰囲気を見るだけでも非現実を味わえるのだった。

 

だから一緒に暮らしている祖父母と母親と家で一緒に居る地獄の時間と父親と居る苦痛な時間を比べると、苦痛でも虐待する人数が少ない父親の方についてく方がマシだと思っていたのと、父親がわたしを見てくれず父の兄の娘ばかりを見ていることへの愛情不足からついて行ってたこともある。

 

父親の実家では虐待はされなかったが異様な光景は見ていた。それは、父親の兄の妻に父はべったりだった。兄の妻はとても美しく大原麗子若尾文子似の色っぽい女性にそっくりだった。父が実家に通うのは兄の妻に会うためだとも思っていた。私よりも兄の妻とその娘の元へ走る父親。寂しかった。

 

父親の浮気相手の殆どは母親とはまるで真逆の女達ばかり。色気がある女達。子持ちの女、旦那が居る女、飲み屋の女、風俗の女、兄貴の嫁、色々だったが共通していたのは、甘い色気が漂うボディコンシャスな女達だった。

 

ある日の日曜日に珍しく両親が一緒に買い物に行くことになった。わたしは嬉しくて車に乗ったら、2人がどんどん険悪になっていく。

 

母親が父親との買い物に行くのが嫌で不貞腐れているのだ。父親はその不貞腐れた顔を見て怒り出す。

 

当時の私は両親が喧嘩しだすと、喧嘩を辞めさせようとおどけて変な顔をしてみたり、自分を下げて親の機嫌を取ることに一生懸命だった。スーパーにつくと今度は父親が自分の好きな物を買い物かごに入れ出すと、母親は更に不機嫌になりスーパーで喧嘩するのだった。

わたしは、お菓子とか買って貰える期待をしていたが、子供には何ひとつ買ってくれない親だった。終始不機嫌な2人の後ろをついて歩きながら、食べたい物を手に持っては戻すを何度も繰り返し自分の欲求が満たされない苦しみに襲われるのだった。

 

周りを見ると買い物中も仲良く買い物に来ている夫婦、子供が親にこれ買ってとおねだりしる姿を見ると自分とは大違いな現実があることに胸が痛くてとても羨ましかった。

 

わたしは他の人の家に行きたいといつも思っていた。

 

両親とのスーパーへの買い物はその一回が最初で最後になった。

 

のちにまた休みの日に外食に行くことになり出かけたらパフェなるものがあって、初めて見るキラキラとした食べ物だった。食べてみたくて食べたいと言えば祖母から劣化の如く怒られる。そんなもの食うな、クソガキのくせに生意気だ。うどんを食えと食べたいものを選ばせて貰えない。自分の意思は全て踏み潰されるのだった。

ある時また外食に行くとパフェがあり食べたいと言ったら父親が1コ頼んでくれたことがあった。そしたら祖母はそれを見て嫉妬にかられ、子供のくせにそんなもの頼みやがってと怒り出す。父親にもキレ出す。わたしは少しだけ食べて残りのパフェを祖母に渡したのだ。そしたら、全部食べられてしまったのだ。祖母は私に来る関心の全てを奪う人間だった。祖母に怒鳴りつけ罵倒されても両親はわたしのことをかばってくれることはなかったので苦しかった。

 

両親に守ってもらえる経験がないまま、祖母からは常に監視され罵倒されて私に来る関心事を奪い取られるという苦痛を味わう。

 

自分のことを見てほしいけど見て欲しく無いという両方の感情が湧くようになりその間に挟まれ葛藤が起きるようになっていった。

 

人間から関心を向けられる恐怖を感じ同時に関心が向けられないことに絶望する。こんな狭間をずっと生きてきた。

 

気色悪い感情を持つ家族の元に生まれたわたしは、そこから逃げることが出来ず心を殺して生きる毎日だった。

 

 

 

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子供が欲しかった思いと恐怖

地元に居た頃は周りの友人や知人が次々と結婚して妊娠出産をして可愛い赤ちゃんを産んでいく中で

 

私もいつか自分の家族を持って子供が欲しいと思うことが多かった。

 

だけどどうしても自分の身内の存在を考えると子供を幸せにすることが出来ない思いが出てくる。

 

子供が出来ても子育ての事を自分の家族に相談出来るような人間の環境ではないし、何より我が子を祖母や母親に見せるなんてことは絶対にしたくない思い。

 

それに、私が家族から愛されていない姿を我が子に見せるなんて精神衛生的に悪すぎる思い。

 

そう思わされる出来事がたくさんあった。

 

うちの祖母は、町内の運動会で私の友達と生まれたばかりの子供にばったりあった時、まだ1才だというのにコーラを飲ませたのだ。

友達はそれに激怒して私に連絡をしてきた。1才のうちの子にコーラを飲ませてきて何考えてるんだと。私は大大大ショックを受けた。

家に帰ってから、お前の友達に会ったから金をくれてやったと聞かされて、祖母が友達の子供にコーラを飲ませたことを言って来なかったので聞いたら飲ませたよと普通の顔をして言ってきたのを見たら怒りが湧いてきて大激怒した。でも祖母は悪いことをしたとは思わずむしろお金をあげたんだからいい事をしたと思って話しにならなかった。結局、私が犠牲になり友人とは絶縁状態になった。

 

次は母親だった。友人が子供を連れてうちに来たら、腐ったリンゴジュースを1才になったばかりの子供に出した。友人が勘が働いてそのジュースを飲んだら腐ってると言って、子供にこんなの出すのおかしいと言われた。私も前の友達の事があったので母親に激怒した。そして母親と祖母は友人の子供にお金を渡していい事をした気分になる。友達にはあんたの家に子供を連れて行けばお金が貰えると思って行ったからま、いいや的な事を言われてそうゆう目で私を利用していることを知って傷ついた。

 

 

次に、親戚の家に行った時に2才位の子供がいて嫌な予感が走った。祖母の姿が見えなくなってヤバいと思い探したら、人の居ない部屋で子供に構っていたのだが、、、衝撃的なシーンを見ることになるのだ。

 

子供の顔に鼻を押し付けて顔中ぐるぐるして舌で下から上に猫のように舐めていたのだ。私は子供が可哀想過ぎるのと自分の祖母が人間とは思えない気持ち悪さと嫌悪感から、辞めろと言ったら、何が辞めろだ、と怒ってきて、その隙に子供は逃げた。それを追おうとしていたのでゾッとなり嫌悪感まみれになった。

 

祖母は子供がいるとあやすのに、大概、子供の手を自分の口の中に全部入れ、出し入れして舐めたり、甘噛みしたり、自分の鼻や唇やほっぺたを子供のふかふかした顔に押し付けこねくり回す姿を何度も見てきたわたしは、自分も記憶が無い時に祖母にそうされていたのかという疑惑が脳裏に走り恐怖と気持ち悪さが全身に走るのだった。

自分が子供を持ったらこいつらから、我が子に同じことをされてしまう恐怖、我が子がママの家にも行ってみたいと言ってきたら会わせない私にきっと傷つくことに違いないという思いが幾度も心に走る。

 

それに加えて、自分が子供を産んだらこの身内の誰かに似た子が出てきた時に完全に愛することが出来ない感情があることに苛まれて苦しんだ。

 

わたしもいずれ家族や子供が欲しいという希望が浮かんでも家族の存在に全て打ち消されてしまう思い。

 

それを何十年も繰り返しつつも、いつかは子供が欲しくて育児本を買って読んだ。

身内のような育て方をしないよう勉強して子供を幸せに出来るようになる為だった。

 

のちに子宮筋腫を発症してしまい手術をした時に婦人科医に年齢的にもう子供は産めませんよ。と言われショックで泣いて受け入れられずにいたが、しばらくして子育ての本はもう捨てようと決意した。本棚から取り出したら色々な希望と絶望を繰り返した思いが蘇り涙が出てきたのだ。でも前に進む為には捨てないとと思い1人で泣きながら処分したのだった。

 

この時は本当に悲しかった。

 

自分の家族がのしかかっている中で希望が持てない現実を歩んだわたしは悲しく辛い思いをしたし泣くのは当然なことだった。

 

私も可愛い子供が欲しかった。せめて本音だけは隠さずに言ってあげたい。

 

 

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高校生まで学校の先生から受けた虐待と暴力

小学2年生になった時から度々先生から虐待されるようになった。

 

ある日の帰りにシーソーのところでクラスメイトがお漏らしをしていたので、先生の所に連れて行ったのだ。

 

その同級生がお着替えとか終わり戻ってきたら、先生が私を教室に呼ぶと、私がその子を虐めたからお漏らしをしたんでしょ。と決めつけてきて歯を食いしばりなさいと言われ、目を瞑って歯を食いしばった瞬間に両手で思い切り挟みビンタをしてきたのだ。物凄く痛くて手洗い場に冷やしに行って鏡を見たらもみじのような手形で両頬が真っ赤になっていた。

私は人を助けたのに殴られたことが面白くなくて先生のことが大嫌いになった。そして助けた同級生が私が殴られたことも知らずに居ることにも憎くくなりのちにその子の持ち物を折ったこともあった。

 

この先生は他にも私が給食が食べれないと6時間目迄残して食べさせる。給食を全部食べたかお盆を自分の所へ持って来いと言って毎日チェックする。先生が怖い。大人の女が怖い。家でも叩かれてるのに学校でも叩かれて最悪だった。

 

小学3年の頃、体育の授業で跳び箱の上で前転をするという運動があった。その時に仲良かった子が跳び箱上で前転をしたら落っこちた姿が動物っぽくて面白かったので笑ってしまったら、担任の男の先生に劣化のごとく怒られて、皆んなの前で土下座して謝れと怒鳴られた。もう1人笑った男の子と2人で皆んなの前で床に顔面を付けて誤った。その体育の授業が終わり次は国語の時間だった。そしたらその先生が教科書を読みながら私の方に近づいてきて、頭のてっぺんにげんごつを落としてきた。私は体育の授業の時に体罰が足りなくてまた殴ってきたんだと思った。凄く痛くてコブになった。大人達というのは一回殴りタガが外れると私の姿が先生の目につく度に握り拳を振りかざされる。家で家族からも殴られてるのに学校の先生にまで殴られる。大人の男が大嫌いになった。

 

そして4年生になると、担任が変わり、また男の教師だった。その先生は更に精神的に虐待をする担任だった。点呼をとる時に皆んなは名字で呼ばれるのに、私だけ、出目金やガリ、出っ歯などと朝礼で呼ぶのだ。

 

ある日、音楽の授業で縦笛の練習をしてる時に小指が穴に届かなくてピーって高い音が出てしまったのだ。そしたら、先生がキレて木琴の木のバチを持ってきて私の頭をそれで殴ってきた。めちゃくちゃ痛かったけど、わざと笛を間違えたわけじゃなかったから痛くないもんねー。と言って逃げたら後ろから追いかけてきて捕まってしまった。そして先生が自分が履いているサンダルを脱いで私の頭をそれで殴ってきたのだ。凄い衝撃で頭が真っ白になってその後の記憶はないが、先生は私を殴った快感からまたサンダルで殴るぞと脅してくるようになった。

 

小学5年、また担任が変わり今度は妊婦の女の先生だった。妊娠しているからなのか、いつもイライラしてる女教師で毎日顔色ばかりを伺っていた。

 

私はとにかく勉強が出来ない子供で、先生達の不機嫌な感情ばかりを気にして身を守りきれなくなっていたから勉強どころではなくなってしまっていたのだ。そんな時、数学の時間に分数の計算で当てられてしまったのだ。黒板に答えを書きに行ったら案の定間違えたのだ。そしたら、間違えた答えに激怒した担任が分厚い本の角で頭を殴ってきて次に印鑑がついているボールペンて更に頭を殴ってきた。私は2年生の頃から先生達にそして家族にも殴られてばかりで怒りが蓄積し抑えきれずに、先生の目の前でノートを破り赤い色鉛筆てぐしゃぐしゃにしてやったのだ。先生は謝りもせずに知らん顔して授業を再開し、私は机に顔を伏せて数学の授業が終わるのを待った。数学の授業の次は体育の授業だったがそれもボイコットした。そしたら男子が迎えに来たのだが、どうせ先生が自分が謝れなくて気まづいから頼まれて来たくせにと感じていたのと、意固地になった私はそいつにすら憎しみが湧いて口をきかなかった。

そこから6年生になるまでは先生とは一切口を効くことなく終わったのだ。

 

益々、不満を溜めてヒステリックになる大人の女、男が自分の強さを弱い子供に出す行為が大嫌いになり大人がとにかくストレスだった。

 

6年生は暴力がなく過ごしたが、先生のキツい態度には滅入っていた。

 

そして中学1年生になり、県一ヤンキー中学に入学したのだ。なので担任の先生たちもそれなりに暴力を振るうのが当たり前、その中でも1番暴行をする担任が教師になった。暴行教師は男子には生徒を殴り骨にヒビを入れる、耳の鼓膜を破って病院送りにする始末だ。

 

体育の授業は男子はその暴行男性教師、女子は女性教師だった。体育の授業で着替えに時間がかかり数人で遅れて行くと、暴行担任の目についてしまった、

 

『てめーらこらあ、こっちにこいこらあ』と怒鳴られ全員で顔を見て、あー殴られるわ。とガッカリ。案の定『横に並べ』と言われて、『何遅れてんだよ』と言って1人ずつ顔面をビンタされてわたしは唇を切った。

 

その暴行教師は女性教師の事が好きで遅れてきた生徒に怒りが湧いて殴るという私的な暴力を振るってきたのだからたまったもんじゃなかった。

 

そこから数ヶ月後、ロッカールームで飴を皆んなでこっそり食べていたら、担任に見つかり、また『お前ら来いこらあ』と言われ、皆んなで、やばーい。となった。何故なら担任の手に持っていたのは分厚い日誌だった。

そして、正座をさせられて1人ずつその日誌で顔面を殴られる。1人の子は鼻を打たれ鼻血が大量に出てしまった、それでも教師はお構いなし、私の番になって顔面に日誌が当たった瞬間に日誌に付いていた紐が目の中に入り失明したかと思う位の激痛で暫く目が開けられない。やっと目が開いても膜が張ったように白くなって見えなかった。そのあとに、黒板側を向いたまま放課後ずっと立たされた。目は時間が経つうちに治ったのでホッとしたが顔の痛みは取れなかった。

 

中学3年になると、今度は集会が長時間過ぎて飽きてきて小さい声でヒソヒソ話しを同級生としていたら、またお前ら『前に出て来いこら』と言われて、足の膝を蹴られた。靴で蹴られたから皮膚を擦りむき腫れ上がったのだ。

 

とにかく昭和の時代の教師は暴力と虐待が日常茶番時で苦痛だった。

 

高校1年になった時、小中とこのような教師からの扱いだったから、先生というものにたいする嫌悪感からなじめなかった。

ここでも、教師から今度は精神的な虐待を受けるのだった。私は人間不信になっていたので学校に馴染めなかった。するとホームルームの時間になると担任がわたしを皆んなの前で名指しして、あなたは教室から出て行きなさい。と教室から1人だけ追放するのだった。学校全体が授業中だから行く場所もなく屋上の階段の上で時間を潰すという感じだった。それで教室に戻ると異様な眼差しで見られる。担任がそんなことをするわけだから私はクラスで孤立して1年を過ごした。

 

高2、高3は、教師からの精神的な虐待や暴力は無かったが、この頃のわたしは自分の心はいつも孤独に襲われていて私を助けてくれる人普通誰もいない辛さと大人への警戒心が強くなっていたので苦悩の日常に変化していた。

 

ある日に、わたしはもう生きていることが辛すぎて死のうと思って川の上に佇んでいたら通りすがりの車が止まりそれに乗せられて助けられてしまった。また苦痛の日常を暮らしたのだ。

 

今思えば、この昭和の教師達と言うのは、理由を生徒に聞くという姿勢が欠如していて自分達の主観から直ぐに暴力と虐待をする人間達だった。

 

そんな大人達に殴られて成人してからも精神や身体感覚にもずっと痛みの記憶が残り続けて生きづらさを抱える羽目になるという一部を赤の他人のましてや教師にまで与えられ続けたことは悲しみと怒りでしかない。

 

 

 

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親しくなると適当になるのはそれ本当に好きな人にする振る舞いなのか?

アダルトチルドレン育ちなので、世の中で言われている恋愛観や結婚したら家族の感覚になるという概念が全く分からない。

 

私の中の家族とは、親しい間柄の人間には雑な扱いをする、暴力、虐待、秘密ごとが多い、気分屋、音信不通、無視、不機嫌、事件、事故、怪我が絶えず、安心感を与えない、子供を大事にしない、不平不満を子供にぶつけてストレスを発散する、毎日、ビクビクする生活をさせてくる人間達というのが家族だったので、

 

世間の親しくなったら、上げて落としたり、落としてあげたり、駆け引きめいたことをしたり、仲の良いい関係なんだからそんなにちゃんとしなくても適当でいいだろうという気持ちの感情になる感覚がわからない。

 

なので恋愛でもドキドキするのが恋愛と漫画であろうがYouTubeであろうがよく見かけるけど、

 

私の場合はドキドキするような人を好きになることが殆どない。

 

例えば、彼氏と待ち合わせをして姿が見えたらドキドキ緊張するということは、

 

私の感覚では、虐待する親や家族と待ち合わせをして姿が見えたら怖くてドキドキするのとなんら変わりはないからだ。

 

漫画の描写でも壁に隠れて女の子が好きな人を見つめるシーんでこっちを好きな男の子が見たら見つからないように隠れる的な?怖いからだよね?と思ってしまう。

 

なのでドキドキするという関係では育った環境と同じタイプの延長線上と被る感覚があるので近寄るどころか遠ざけてしまう。

 

不機嫌な人や気分屋に対しても頼み事や適度に甘えさせてくれない人にも同様なドキドキが起きるので遠ざけてしまい、最終的にはフェードアウトして一切、自分の姿を消してしまうレベルである。

 

好きになって、怖いってドキドキするようなストレスを感じてまで何故に恋愛をしなければいけないのか意味が分からないのだ。

 

好きになるとドキドキする恐怖を感じる人を本当に好きなのだろうか?

 

なので、顔や姿を見たら安心するから近寄りたくなったり、一緒に居ると嬉しくて心地が良いいからキュンとしたり、相手を好きでいる事に幸せを感じる。

 

こうゆう人に対して恋愛感情が湧くので多分世間で話されている恋愛感情と私の中から湧いてくる恋愛感情は全く違うのだろうと思っている。

 

気を使わない関係に関しても、気を使わなくていいからって相手に対して雑になり適当に扱う感覚になることが分からない。

 

気を使わない相手だからこそ大切だと感じ愛おしくなるから丁寧になるのならわかる。

 

なのできっと真逆の心理を生きているのだろう。

 

生い立ちの痛みは深いし、親を選べなかった環境に好きで生まれたわけではないからこうなっても仕方がない。

 

必死に生きた子供頃の私。好きになれない家族や親族と両親の元に生まれたことはとてつもない痛みを背負い生きる人生になっていた。

 

動悸や息苦しさが起きるような親族と家族と絶縁したことで得た安心感。

 

私は親密になった人の事は雑に扱うことなくずっと大切にするだろう。

 

 

MeguのYouth&Health研究所