MeguのYouth&Health研究所

わたしの人生

子供は家族の奴隷

家系的に子供は5才から労働をするという図式の血族だった。

 

2世代上は親は働かないけれど子供が稼いで親にお金を渡せ。という家族。最低な人間だ。

それが祖父の両親。その為にわたしも幼稚園から労働者として扱われ続けた。

 

実家は兼業農家で暮らしを賄う半自給自足生活だったので5才頃から、田畑の仕事を子供にさせるのだった。

 

特に米作りの時期、3月4月、10月11月は地獄だった。

 

3月から米の種植えが始まるのでそこに子供を一輪車を使わせ何十キロもある土を往復で運ばせる。

スコップで土と肥料を混ぜ合わせる。トレーに土を蒔き種を蒔き水を撒く。その後にそのトレーをハウスに何十往復して運ぶのだった。

子供の体で一輪車にトレーを載せて運ぶのはふらつき倒してしまう。その都度、何やってんだちゃんとやれバカやろーと祖母に怒鳴りつけられて頭を叩かれる。それが毎年やってくるから嫌で嫌でしかたなかった。

 

稲が育つと次は田植えだった。自分の体の何倍もある木製の重い線引き機で田んぼに線を引く。力がないので転ぶとまた怒鳴られるのだった。それが終わると裸足で田んぼに入り、手植えで稲を植える作業。小さい体に籠をつけられて、稲を放り投げられ取れなければ泥水が顔面にかかる。ちゃんと植えれなれなければまた祖母に罵倒される。次は使い終わったトレーを洗う作業、トラクターを洗う作業、これを5才の頃からさせられていていつもくたくたになりぐったりだった。

私の体は子供のうちから疲弊と疲労がつきまとうようになった。

 

10月になると、稲刈りの時期がくる為に今度は天日干し用の杭を何百本と運びそれを土に深く打っていく。子供の体で2メートルもある杭を運び土に打つのは過酷だった。力がないのでうまく出来ないとまた怒鳴られる。

そして稲刈りが始まり30キロの袋に稲がどんどん詰められる。それを軽トラックに100袋近く積んで、乾燥機に運んで一袋ずつ流していく。

これを1人でさせられるのだった。次から次と運ばれてくる米。キリがない乾燥機に流す時間。それをしているうちに子供ながら腰を痛めてしまい20代でヘルニアになってしまったのだ。この労働が苦痛すぎて体は消耗するばかり。

 

もう嫌だ。心の声が全身を駆け巡る。

 

畑もしていたので、稲作が無い時は芋掘りや、草取り、もう限界だった。だけど、やらないと怒鳴られて役立たずと言われる。働かざる者は食うな。と散々言われる。自分よりも大きな大人に言われる怖さから頑張って働いた。

 

そのうち、わたしは、農業というものに恐怖を感じるようになっていった。畑や田んぼや山を見ると胸が締め付けられて発作が起きる。

 

そのような、稲作労働の苦しみから白米を食べると激しい発作が起きるようになった。

 

白米を見ると動悸がする。子供にとっては過酷な労働だったので米がトラウマになってしまっていた。

 

大人になった今も、白米を食べるとたまに気持ち悪くなるので、雑穀米やもち麦を入れて白米じゃないよ。大丈夫だよーと、子供の頃の辛かった記憶とリンクしないようにしている。

 

子供の頃、誰にも助けて貰えず辛かった現実をわかって貰えなかったことは今の自分が充分理解している。

 

こんな過酷な労働したくなかったよねって。